2012-01-01から1年間の記事一覧

「私考 知的障害者にとって自立とは」  第6章 天才の出現

この記事は2006年3月8日のものです。知的障害者がいかにして生きがいを見つけるか? それは、案外、すぐ側にあるかも知れません。よーく、わが子を見てやってください。 第6章 天才の出現 僕の前に道はない 僕の後ろに道はできる (高村光太郎 『道程』よ…

「私考 知的障害者にとって自立とは」  第5章 生き方を教えて!

この記事は2006年1月14日のものです。 前回までの話は理想論。今回から、現実に目を向けて話を進めて行きたいと思います。といっても「理想を捨てろ!」という話ではありません。むしろ、理想を捨てると大変なことになるといった忠告と思って頂きたい。非常…

「私考 知的障害者にとって自立とは」  第4章 障害者による社会変革

この記事は、2005年9月17日のものです。 前回は、障害のある人の芸術作品や芸術活動が、エイブル・アート・ムーブメントと呼ばれ、注目を集めているという話を致しました。今回は、それが、障害者理解や障害者の自立につながるといった障害者に対するモノだ…

「私考 知的障害者にとって自立とは」  第3章 エイブル・アート・ムーブメント

この記事は、2005年9月17日のものです。前回の「アウトサイダー・アート」では、不遇な運命の中で、彼らが必死で掴んだ、かけがえのない夢の世界を紹介しました。今、我々は、彼らの世界を世に認め、彼らと共に、新しい世界を築き上げようとしています。エイ…

「私考 知的障害者にとって自立とは」 第2章 アウトサイダー・アート

この記事は、2005年9月17日のものです。前回の「パンクな自閉症ホームページ」では、自閉症とパンクの共通点をほのめかしましたが、それは、共に社会的な弱者であったことで結びついているのではないか?と思います。 では、みなさん、もし私達が、社会から…

「私考 知的障害者にとって自立とは」 第1章 パンクな自閉症ホームページ

この記事は、2005年9月9日のものです。 昨今、「障害者の自立」というものに対しての考え方が、大きく変わっております。 『特別施設での集中的なケアをするのではなく、地域の中でみんなと一緒に暮らせるように、地域で自立支援を行う。』という考え方です…

超過激な福祉芸術論  『私的論考 知的障害者にとって自立とは』

今から10年くらい前になりますが、知的障害児の「親の会」に頼まれて作っていたホームページがありまして、私はそこにこっそりと『私的論考 知的障害者にとって自立とは』という論文を載せておりました。しかも、あまりにも過激でしたので、あくまでも私的…

沈まぬ太陽

「結局、人は早よ死ぬか、遅そ死ぬか、それだけの違いじゃ・・・」闘病生活を続けながら延命していた父が、いつも口にしていた言葉だった。 僕が聞いた父の言葉はそこまでで、その後に父は言葉を失ったまましばらく生き、いつしか静かに死んでいた。大往生であ…

死国

神代の時代から、この地は流刑地としてあったようである。都から追放された者どもは、この地で無念の死を遂げたのであろう。町なかから少し離れた山中の窪地には、これら不遇の死を遂げた者どもの霊が蠢いていたと思われる。そのような死霊蠢く地をひとつひ…

母の最後の言葉

個展の最終日の昼前、母のいる病室に入った。母はチューブに包まるように寝ていた。僕の気配を感じたのか、カーテンを開けるようにとの仕草をしたが、カーテンは開いており、部屋は日の光で既に明るかった。母の視力は、もうほとんどなくなっていたのであろ…

道後の地にMUTANT現る!

既に、頭の片隅にあったのかも知れない。文学・宗教の百科事典をぺらぺらとめくっているうちに、「一遍」という、どこかで聞いたことがあるような名が目についた。 寺も持たず、檀家も持たず、生涯、全国を行脚してまわった僧侶。尊称「捨て聖」。道後の生ま…

芸術とは妄想である。否、妄想こそが芸術なのだ。

身体の痛みは神経の痛みとなり、感覚を眠らせる。 もう、痛くはないぞ! やがて、涙も雨となり、汚れた身体を洗ってくれる。 砂を噛むように生きてきた蝸牛。 今は、妄想の中にいる。これは、私の作品『砂場の蝸牛』に添えておいた詩であるが、一人の女性が…