沈まぬ太陽

「結局、人は早よ死ぬか、遅そ死ぬか、それだけの違いじゃ・・・」

闘病生活を続けながら延命していた父が、いつも口にしていた言葉だった。
僕が聞いた父の言葉はそこまでで、その後に父は言葉を失ったまましばらく生き、いつしか静かに死んでいた。大往生である。
 「人は何で生きるのか?」「何のために生きるのか?」「生きる意味は何だ!」「なぜ生きなけりゃならないんだ!」などと、悩み苦しむのがアホに思えるほどに、それは単純明快な答えであり、実践だった。父が死んだ日、僕は、とても晴れやかな気持ちになり、死ぬのが怖くなくなった。それは、いつでも死ねるということであり、じゃ、もうすこし人生を楽しんでやろう!という気分にもさせるのである。不思議なものだ。「いつ死んでもいい」と思うと、いつまでも生きられる気がしてくる。悟りを開いたような心境だが、これには、たった一つの救いがあったからだと、今は思う。それは、「死んだら父の処へ行ける」という安心感だった。それから、僕は「死」が好きになった。

 ムンクは精神を病んでいた。統合失調症という精神疾患で、自分が考えていることに収集がつかなくなるという精神障害がある。このての障害には往々にして「生と死の区別がつかなくなる」という特徴があり、ムンクの場合にもその兆候があったようだ。そのようなことが伺えられるような作品が残っている。一番印象に残っているのが「生命のダンス」という作品で、そこに踊っている人たちは、幽霊のように気の抜けた人か恐ろしい狂人である。「死のダンス」というのなら解るのだが、ムンクはこの絵を「生命のダンス」と名付けている。こういうところが、ムンクの神秘性を感じるところであり、見る人を妙に深く考え込ませてしまうのであるが・・・

 僕は、ムンクの絵を見ながら、亡き父の姿を思い出した。闘病生活を続けながら延命していた父である。そこには、消えそうで消えない灯火のような魂があった。そんなことを思い出しながら、もう一度、ムンクの絵見た時、やっぱりこの絵は「生命のダンス」でなければいけない!と僕は確信した。

 この絵が描かれたのは、ムンクの症状が悪化してサナトリアムで精神治療を受けている時だという。統合失調症精神障害のため、ムンクは生と死の境界をさ迷っていた。そこには死人もいるし狂人もいる。しかし、その向こうには北欧特有の沈まぬ太陽が地平線すれすれで微かに輝いている。この光こそが生命なのである。天に上ることはないけれど、決して沈むこともない。死と隣り合わせに生きている人たちにとって、この太陽こそ生きている証なのだ。

この世の中には強くない人もいる。強くなれない人もいる。ぎりぎりで生きてる人もいるんだ!
父が言ってた言葉が聞こえてくる。「結局、人は早よ死ぬか、遅そ死ぬか、それだけの違いじゃ・・・」

(とうちゃん、もうちょっと待って、僕はもう少し「沈まぬ太陽」を見ていたい・・・)