生きた芸術を求めて

 去年の暮れ、道後で朝までとことん飲んだ。気が付いたら道後の湯に浸かっていた。どこかで転んだのか膝っ小僧と踝が痛い。泥酔の末の朝風呂から上がり、よたよた歩いていて、ふと景色が違うことに気づき、はっとした。眼鏡がないのである。きっと最後の飲み屋にあるのだろうと、行ってみたがない。じゃ風呂かと、風呂に戻ってみたがない。結局、ぼんやりとした視覚のまま千葉に帰り、休む間もなく、以前、破損した眼鏡のフレームを設え、今度は異様にくっきりと見える視覚のまま新潟に向かう。そこは、極寒だった。全てが凍てついて見えた。昨日まで、酒で火照っていた体も凍える。また、酒が欲しくなる。
 結局、酒浸りの行きずれの末、年を越し、正月二日目は丸一日、泥のように寝てしまった。全く、散々である。
 でも、今までにない得も居られないすがすがしさを感じていたのも本当で、そんな中、私は、とんでもない確信に行き着いた。

 結局、何の確信も持てない我々人類は、不変なる真実を得るために、それを美しいまま永遠に閉じ込める。
私たちは、それを芸術作品と呼び、後々まで大切にした。しかし、それは美しい状態で保たれ続ける死体のような存在なのだ。すでに、死んでいるのである。作家が作り出したモノとは似ても似つかないゾンビとして保管され続けているのである。我々は、それを莫大な金をかけて所有し続けているわけだから、馬鹿げたものだ。芸術は捨てたその瞬間から価値を持ち保管され続ける。本当の芸術は、実はその時、死んでいるのだ。

 今年から私は、芸術の生まれる場所の建設に全情熱を注ぎたいと思います。産み出される作品はアーカイブとして残すことはするかもしれませんが、それを保管し販売することには一切の関心は御座いません。芸術は感じるだけのもので、後には何も残らないものなのです。