芸術とは妄想である。否、妄想こそが芸術なのだ。

  身体の痛みは神経の痛みとなり、感覚を眠らせる。
  もう、痛くはないぞ!
  やがて、涙も雨となり、汚れた身体を洗ってくれる。
  砂を噛むように生きてきた蝸牛。
  今は、妄想の中にいる。

これは、私の作品『砂場の蝸牛』に添えておいた詩であるが、一人の女性がこれを見ながら涙した。聞くと、かつて彼女は、15年もの間、精神障害者と共に絵を描いていたという。そのときのことを思い出してしまったのだというのだ。しかも、その時、彼女自身も精神を病んでいたと、ぽつりと言った。

私は、『環境と精神の同調』ということをテーマに作品を仕上げている。常に、社会に目をやり、社会に投げかけるように作品を展示している。
何の変哲もないローカル線郊外の駅通路ではほとんど、年金生活の年寄りか小学校前の子連れのお母さんしか来ない。そのような人々にはほとんど無縁の絵なのであるが、彼らから得られる感想は、とてつもなく奥が深い。身内のこと、過去の思い出、将来の夢など、お茶飲み友達のように尽きることなく話しかけられるのである。

「私、この鳥の絵とこの目玉の絵を見ていると、音が聞こえてくるの。そしてずーっと消えないのよ。」と、何度もお目当ての絵を確認しにいらっしゃるおばあさんがいた。
「私、頭がおかしいのかしら?」と言うものだから、「そんなことないですよ。感性がずば抜けてるんですよ。きっと・・・」と、話してあげると、「そうですよね。」と嬉しそうに帰って行かれた。

どうゆうわけか、私の絵は障害を抱えた方によく見ていただく。最初は、そんな絵なのかな〜と思っていた。(実際、自閉症らしき人が何度も見に来ることがよくあった。)
しかし、展示している他の人に聞いてみても、同じように言われるので、捉え方が変わってきた。どうやら、作品の内容に関わらず、障害を抱えた方がよく絵を見に来るようなのだ。絵に癒されたい或いは元気をもらいたいという気持ちが、健常の方よりも強いのではなかろうか? 

現実に満たされない何かを求めて芸術作品を見ているのであれば、芸術とは妄想である。

否、妄想こそが芸術なのかもしれない。
だってそもそも、私たちが見ている絵画とは、ただ単に、紙の上に色のついた絵の具を塗ったものに過ぎないのだ。それを綺麗だ!素晴らしい!と言っているのだから、妄想以外の何ものでも無いではないか。

でも、そんな妄想を楽しむことも・・・ステキだ!