「私考 知的障害者にとって自立とは」  第4章 障害者による社会変革

この記事は、2005年9月17日のものです。

 前回は、障害のある人の芸術作品や芸術活動が、エイブル・アート・ムーブメントと呼ばれ、注目を集めているという話を致しました。今回は、それが、障害者理解や障害者の自立につながるといった障害者に対するモノだけではなく、それを取り巻く社会全体にも多大な影響を与えることを評価して、障害者自らが社会を変革していく力があることを知って頂きたいと思います。

第4章 障害者による社会変革

1節 悩める現代

 世界を大きく二つに分けると、共産主義自由主義に分かれる。共産主義の主張は「富は国民の共通の財産である。」という訳だけれど、現実は「働かざるもの食うべからず!」というポリシーの元、国民を厳しく監視する一党独裁の社会体制が敷かれている。一方、自由主義の主張はというと「全ての人に富を得るチャンスがある。」というのだが、現実は国家をも自由に操る巨大資本の傘の下、厳しい競争社会に打ち勝つために身を削る思いで働かざるを得ない。
 いかに「自由と平等」というものが【まやかし】であるかと知れば知るほど、「あっしにはカンケイのないこってござんす!」と、渡世の道に足が向いてしまうのは、私だけではなかろう! もっと別な言い方をすれば、「勝手にしやがれ!」或いは「カサブランカダンディー」って感じのハード・ボイルド・ロマンかな?
 まーこれはシネマの世界であって、浅田彰の『逃走論』を本当に実践できる人はそういないもので、やっぱり、家庭が大切と思うマイホーム・パパになる人が圧倒的に多い。しかし、それも防御を固める為の手段なのであり、実際には、只のオタク家族なのではないのかと、私は思っている。(失礼、私もその一人です。)
 ちょっと不審な行動をとっている人を見ると、(ひょっとしたら、その人は知的障害者かもしれない、或いは精神障害者かもしれない。)まず、関わりたくないと思うでしょう。そうーですよね、みなさん。見るからに不登校児、見るからに路上生活者とわかっていても、何とかしてあげようと思いますか? 思っていてもできないんじゃないですか?
 マザー・テレサが東京にやってきたとき、そんな日本人の行動を見て、

   この国には物質的に飢えている人はいないけれど、精神的に飢えている人が多い。
   それは、もっと不幸なことです。

とおしゃったそうです。
 それに比べて、貧困国インドの極貧の人の行いは、全く違っていました。
 彼女が一人インドで貧しい家族の人に施しをしたとき、その家族は感謝の気持ちをこめて彼女に施しを少し譲り、残りの半分を、もっと貧しい家族がいるからその家族に恵んでやってほしいと頼んだそうです。
 この話を聞いて、そんな甘い考えでいるから貧困から抜け出せないんだ!と思っている人は、ここから先を読まなくても結構です。あなたに伝えることは何もありませんし、伝えるつもりもありません。勝手に生きて勝手に死んで下さい!(そういう生き方もありますし、かつての私もそうでした。)
 少しでも情ある人だけ、続きをお読み下さい。

 障害者にとって、この「現代日本人の他者に対する無関心さ」は大変不幸なことですが、それだけではなく、障害者と関わらざる終えなくなる現代日本人にとっても、それはとても大きな障害となっているのです。(ある意味、みんな障害を抱えているということですね、これは。)
 それほどに、現代社会は病んでいるのです。

2節 なにも与えることのできない人の気持ち

 「福祉を変える経営」で故小倉昌男さんは、「自分で稼ぐことが真の自立」だと強く主張しておられました。じゃあそれができない障害者は自立できないのか?というと、「できないことは無い」と言い張り、障害者でも稼げる方法を提案し実践しました。そしてそれは成功を収め、障害者でも自分で稼げることを実証しました。
 確かに、それはすばらしいことです。しかし、なぜが私には納得がいかないものが残っております。(この気持ちは、障害者自立支援法に関しても同じです。)それは、「金儲けだけが人生じゃない」とでもいいましょうか、「人はパンのみにて生きる者にあらず」とでもいいましょうか、「金では買えない物もある」とでもいいましょうか・・・・
 例えば、乞食は、托鉢をしているお坊さんは、寄付金で運営している修道院は、つまりは世俗的な生活をしている人たちは、何を売って糧を得ているのでしょか?と、ここで問いたい。
 率直にいうと、彼らは「自分ひとりでは生きていけない」ということを実践しているのではなかろうか?と思う。人から施しを受けるということは、逆の見方をすれば、与える人に『生きることの本質』を見せ付けます。このことが、私たちを強烈に勇気づけ、同時に清らかな気持ちにさせる。
 ここでもう一度、〜スペシャルニードのあるお子さんを授かったご両親へ〜を開いて見て頂きたい。私は、「なにも与えることのできない人の気持ち」を、この悲しく美しい心の声を、忘れて欲しくない!
 『おかあさん、ぼくが生まれてごめんなさい』で「やさしさこそが大切で、悲しさこそが美しい」と詩っていた脳性麻痺の男の子の気持ちを、スーパー・オリンピックスの後の感想で知的障害者は私たちになくてはならない人だと思います。」といっていた小学生の正直な気持ちを、いつまでも絶やさないで欲しい。
 小倉昌男さんの言っていることが間違っているというわけではありません。しかし、「必ずどこかにスペシャルニードという人はいて、彼らの存在こそが私たちを励ましているのだということを、そしてそれゆえ、彼らは手厚く保護されなければならない存在なのだ!」ということを、言いたいのです。【働ける人が働き、必要とする人が受ける】という当たり前のことを当たり前と判るようになるまで・・・

3節 ありがとう障害者

 今、私は我が子が知的障害児であることを幸せに思う。もしも、彼に障害がなかったら、これほどまでに我が子を思いやることはなかっただろう。正直、我が子の数々の奇行を素直に受け入れられるようになるまでには、並々ならぬ苦労があった。しかし、その苦労がなかったら、私は、もっと人間を軽く見ていたに違いない。人それぞれに癖があり、思い描くことはまちまちで、決して完全には理解できないだろうけれども、互いに尊重しあうということが大切だということを、我が子を通して教えられたのです。
 障害のある子を見ていると、心の奥底からこみ上げてくるものがある。彼らが、彼らなりに一生懸命生きている姿を見ると、どうしようもなく涙があふれてくる。どうしてなのだろう?この、魂を揺さぶられる思いは、どこから起きてくるのだろう? それを素直に受け入れた時の、言いようの無い清清しさはなんだろう?
 今、私は、彼らと共に生きているという実感を覚える。ひとりじゃないよ!いっしょだよ!どこからか、そんな声が木霊してくる。嘗て、障害のある子は、神からの授かり物とされ、地域みんなで大切に扱われた者だった。群れをなす野生の動物のなかでも、生まれながらに気弱な子供は、群れ全体で育てるらしい。弱者を思いやる気持ちは、既に遺伝子に組み込まれているのではなかろうか?
 ここで、一つ言っておきたいことがあります。「仕事は自分の為ではなく、人の為にやっている。」ということです。それがわかっているのなら、私たちが何のために働いているかということも、おのずと見えてくるでしょう。(よもや、「生きるために働いているんだ!」などと、低次元な発言は出てこないですよね。)
 では、その人とは誰でしょう? ここで、「お金を支払う人」と答えた人は、まだ資本主義という【まやかし】に囚われている人です。ユーラシア大陸ヒッチハイクの旅をお薦めします。(あのときの猿岩石は本当に偉かった!)
 さて、【働ける人が働き、必要とする人が受ける】という当たり前のことわかったところで、ここで、ある意味本当に必要とされている人に登場してもらいましょう!彼らがいなかったら、我々の心は荒み、社会は今以上に荒廃していたことでしょう。それは例えば、偶然目にした絵画だったりするのです。その彼の作品が我々を救ってくれたと言っても過言ではないのです。
さあーみなさん!今こそ、心のそこから感謝の気持ちを込めて、声高らかに言いましょう!

  ありがとう障害者!