母の最後の言葉

 個展の最終日の昼前、母のいる病室に入った。母はチューブに包まるように寝ていた。僕の気配を感じたのか、カーテンを開けるようにとの仕草をしたが、カーテンは開いており、部屋は日の光で既に明るかった。母の視力は、もうほとんどなくなっていたのであろう。
 「よしきが来たよ。」という声に反応して、僕の方を見たが、もはや抗癌剤も効かなくなっていた母の顔はミイラのようだった。その母が、小枝のように細くなった手にあらん限りの力を込めて、僕の手をぎゅーっと握りしめ、もう声にもならない小さな声で何かを言った。
「・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・!」
それが、母の最期の言葉となった。

 母が道後の地に嫁いだのは、終戦後の貧困の時代だった。青春時代は戦争真っただ中であったから、自由な恋愛などできるはずもなく、しかも、生家は瀬戸内の海辺の農家で、12人兄弟姉妹の末っ子だったから、女学校を卒業すると有無も言わせず、すぐに見合結婚させられた。結婚後二人は、父方の家のしきたりに基づき、家長となる三男坊から土地を借り受け、農業を始めた。(家長が三男坊だったのには訳がある。長男は戦死し、次男は結婚真近で頭がおかしくなり相続権を失ったのだ。)
 父母は、借り受けた農地の隅に納屋付きの新居を建て、新婚生活を始めた。しかし、幸せな生活もつかの間であった。兄が生れてしばらくして、家長の三男が借金の形に一家の土地を全て失ったのである。父が借り受けていた土地も没収されることとなる。農家が土地を失ったのでは、もはや、一家心中しかない。(実際、小学校しかでていなかった父にできることは、農業しかなかった。)父は苦渋の決断をした。莫大な借金をして土地を買い戻したのだ。それから、母の想像を絶する節約人生が始まった。
 結局、兄はランドセルを背負うことなく小学校を過ごすことになる。家計が幾分裕福になった頃に、やっと僕が生れた。母は女の子が欲しかったようであるが、生れたのは、か弱い男の子であった。(姑となる人も父が幼いときに死んでいたことを考えると、ついに母は、女としての苦労を分ち合える人をひとりも得ることができなかった。)
 僕は、はっきりと憶えている。やっとの思いで建替えた家の、待望の洋風応接間に飾るために、農作業の合間に、突然、人形を造り始めたことを・・・。花作りが何より好きで、玄関をいつも花でいっぱい飾っていたことを・・・。田舎の12兄弟姉妹の末っ子に生まれ、戦争で青春を奪われ、嫁いだ先の農家が芸術で破産したためか、母は華やかな生活をする人々を憎んでいた。「金持ちには成るな!」「芸術家には成るな!」(そんな、家族を裏切るようかのに、僕は芸術に溺れたのだが・・・。)
 病魔が体を蝕むようになってくると、いよいよ母は、近所の新参者どもに悪態を吐くようになった。だが、それは、あきらかに嫉妬である。母が生きてる間に個展を開こう思ったのは、そんな理由がある。僕の絵が新聞に載った時である。病魔で苦しんでいるはずの母が、とても、穏やかな顔で僕を見た。その時、僕はやっと親孝行ができたと感じた。母は、やっと女に戻れたのだと思った。幸せなひと時だった。
 それからである。母が「納屋をアトリエにしたい」という僕の夢を叶えてくれたのだ。しかし、これは親戚一同を敵に回すほどの大決断だ!(あれほど妬んでいた芸術を受け入れ、しかも、次男坊に土地を相続することも許したのだから・・・) 

 母は最期の最後に、決して明かすことも許されなかった自分の夢を僕に託したのだと思う。それが、あの母の最期の言葉には込められていたと、僕は、今でも信じている。