「私考 知的障害者にとって自立とは」  第6章 天才の出現

この記事は2006年3月8日のものです。

知的障害者がいかにして生きがいを見つけるか?
それは、案外、すぐ側にあるかも知れません。よーく、わが子を見てやってください。

 第6章 天才の出現

  僕の前に道はない
  僕の後ろに道はできる
   (高村光太郎 『道程』より)


第1節 道

  僕が生れ落ちたのは、周りに何もないだだっ広い草原のようなところだった。
  はるか遠くに、なにやら人の気配がするのだが、まあ、いいや、しばらく、ここにいるとしよう。

  時々、近くにやってきて、僕を、あの遠いところに連れて行こうとする者がいる。
  誰だ。
  お前は誰だ。
  僕はここが気に入っているんだ。
  ほっといてくれないか。

  何々、「あそこに行けば道が開ける。」だって、
  【道】ってなに?
  「頂に行くには、道を歩かなきゃならないんだ。」
  【頂】ってなに?
  「君が望むことだよ。」
  僕が望むことは、ここにいることさ。
  「みんな、そうやってるんだ。そうやって大人になるんだ。君も大人にならなきゃダメなんだ。」
  イヤダネ!

  どうやら、僕が生まれる前から、僕がしなきゃならないことが決まっていたらしい。
  あのはるか遠くにいる子たちは、その【道】とやらの上に生まれてきた奴らだろう。
  みんな、何も考えずに、スイスイと【大人】とやらになるんだろうな。

  また、アイツがやってきた。
  今度は、連れて行こうとはしない。
  いっしょに遊んでくれるだけだ。
  ちょっと、気にかかる。

  また、アイツがやってきた。
  また、いっしょに遊んでくれるだけだった。
  でも、すぐ帰っちゃった。
  ま、いいか、また会えるさ。

  おかしいな、いつまで待っても、来ないじゃないか。
  早く、きてくれないかなー

  やっと、アイツがやってきた。
  でも、また、すぐに帰っちゃった。
  ちょっと、ちょっと、待ってよ。

  「いっしょに来るかい?」

  僕は、アイツといっしょに行くことにした。
  あの、はるか遠くの【道】とやらに

  僕は、道なき道を、いばらの道を、這いずり這いずり這いずって【道】を目指した。
  【道】に着けば、歩けるようになるだろうと・・・・アイツに言われて
  しかし、【道】はとんでもなく遠かった。
  這いずれど這いずれど、たどり着きゃしない。
  何度も何度もやめちゃおうかと思ったけど、アイツは何も言わずに、ただ、じっと待っててくれた。
  だから、行こうと思ったのかもしれない・・・・アイツの側に

  やっと【道】が開けてきた。
  だけど、どこにいればいいの?
  なにをすればいいの?
  なんとか歩けるようになったけど、どこに行けばいいの?
  僕にはチンプンカンプン
  だれも教えてくれない。
  聞いてもわからない。
  聞き方もしらない。
  これから、僕はどうすりゃいいの?

  僕は【道】を前にして、立ち止まってしまった。

  僕は、あそこにいた方がよかったのかもしれない。
  あそこにいれば【道】が開けたのかもしれない。
  だって、そうだったじゃないか。
  僕はここまで、自分でやってきたんだから。
  自分で、道を作ってきたんだから。

第2節 奇跡

 人は、自分の人生の旅立ちをするために、自立を試みる。しかし、障害者にとっては、自立すること即ち旅立ちなのである。ましてや、生まれながらの発達障害児は、生まれた瞬間から自立に向けて旅立たなければならない。なぜなら、そこに【道】がないからである。これは、大変、驚異的な試練である。認知できるものが何も無い恐ろしい世界で、唯一人、生きていかねばならないという極限状態。完全なる孤独。
 誰もが障害者の自立を心配しているが、実は、彼らは、この信じられないほどの苦難を乗り越えて生きていくだけの強い精神力を、すでに兼ね備えているのだ。このような状況下では、脳は進化する。実際、サバン症候群の人たちの驚異的な能力がこれに相当する。人間の右脳の80%は一生涯使われることはないと言われるが、左脳欠損症の人は、右脳のこの部分を発達させて、新たな能力を身につけている。ずば抜けた数字記憶能力。時間を逆算する能力。瞬時に画像を記憶する能力。音を画像に変換する能力。すべて、通常では持ち得ない能力である。
 奇跡というものは、滅多に起こるものではない。しかし、発達障害児が能力を獲得することは、一つ一つが奇跡に近い出来事である。「普通ならこうすればいい。」がいっさい通じないのだから。誰が教えるのでもない。

彼が、自ら、只一人で、誰の力も借りずに、誰もやったことの無いやり方で、それを成し遂げるのだ。
 この点を何度も強調しておきたい。まさに、彼らは奇跡の人なのである。彼らは地獄のような緊張状態で毎日を暮らす。彼らの脳内はズタズタにされ、おそらくいたるところに苦痛を感じていることであろう。癲癇発作が起こる寸前である。パニックが起こるのもこのときである。しかし、案ずること無かれ。「窮鼠猫を噛む」「火事場の馬鹿力」は、このときに起こる。こんなとき、脳内にはβ-エンドロフィンというモルヒネの数十倍はあろうかというホルモンが発せられるという。これこそが、奇跡を生み出す物質なのだ。いままで眠っていた未知の能力が彼らを救うのである。

第3章 天才の出現

 ただ、ぼんやりと生きているだけでは、人は成長しない。むしろ、苦しい思いをして、それを乗り越えることで、人は成長する。と、誰もが言うけれど、そんなことは、大部分、既にある前例を模倣すれば事足りるのであり、うまくやっていく方法もいくらでも開発されている。世渡り上手の器用な人間だったら朝飯前ということになる。
 しかし、何も無いところから何かを生み出すということになると、そう簡単ではない。誰も気付かなかったところに気付き、誰も考えなかった方法で、絶対できないと言われていることをやってのける人というのは、いったいどういう頭をしているのか気になるところだ。「発想が違う」ということで、簡単に片付けようとするが、要するに、そういう人は、異例の人物ということになる。どこかおかしいのだ、頭が。

 そういう人のことだ。天才とは。

 日々の生活に挑戦し続けなければならない知的障害者の頭の構造と、天才と言われる人の頭の構造は、実は大変似通っている。「天才とは狂人の一形態だ」とか、「天才には発達障害があった」とか巷でささやかれているのも、なかんずく嘘ではないような気がしてくる。
しかし、知的障害者がみんな天才になるかというと、そうではない。むしろ、その可能性は皆無に近い。それは何故か?ならば、天才はどのように出現するのか?
その謎を、解明することにする。
 一般に、人がある問題を解決するには、左脳と右脳を結ぶ脳梁と呼ばれる部分が必要となる。ここを情報がスムーズに行き来することで、右脳に蓄えられた感覚的イメージと左脳に蓄えられた論理的パターンが融合して、体系化される。一度体系化されると、後は凡人にもわかるようなものとなり、「ヘ〜、そうなんだ!」となるわけだ。しかし、悲しいかな、知的障害者のこの部分は、「なかなかスムーズに行き来できない」という障害がある。右脳にも左脳にも膨大なストックがあるにもかかわらず、なかなかこれらが融合してくれないのである。脳の障害とは、大部分がこういうものだ。もしも、彼らに奇跡が訪れ、この部分がスムーズに行き来できるようになったとしよう。もともと膨大なストックがある彼らである、沸き出る泉の如く、次から次と、びっくりするような大発見・大発明が飛び出してくることだろう。そう、天才とはこのような奇跡から出現するのである。

信じようと信じまいと、それは、どちらでも結構。
 私は、彼らの可能性を信じることにする。「お前は、バカだ!」と言われるならば、喜んでバカになりましょう。
 どちらの生き方が幸せであるか、いずれ解かるときが来る。