死国

神代の時代から、この地は流刑地としてあったようである。都から追放された者どもは、この地で無念の死を遂げたのであろう。町なかから少し離れた山中の窪地には、これら不遇の死を遂げた者どもの霊が蠢いていたと思われる。そのような死霊蠢く地をひとつひとつ訪れ、供養してまわった僧侶こそ、弘法大師その人であり、彼の偉業によって、この地には合計88箇所の霊場が出来上がった。人々は今でも、その88箇所の霊場をひとつずつ訪れ、霊たちの供養を行う。これを遍路と呼ぶのだが、世界広しといえども、今もってこのように死者達と繋がっていようとしている地が他にあるだろうか? まさに、ここは死の国である。『四国』の語源はもしかしたら『死国』かもしれないと思ったのは、そんなわけだった。
 ほとんど、学校に行くこともなく、ひとり部屋に篭っていた少年は、あるときから、奇妙に細かな装飾的線描を画面いっぱいに描き始めた。まるで、呪文でも唱えるかのように、一日5時間は集中して描き続けるという。それは、あたかも生と死のぎりぎりの境界線を歩いているかのような緊張感をかもし出し、極めて切なく美しい図柄を構成していた。
「この絵は寺に合うな。」と、僕は正直に感じたことを口にした。すると「・・・寺、好き・・・」と少年はつぶやいた。いろいろ聞いてみると、寺には妖精がいて、気分が落ち着くのだという。特に、夜の寺が好きだそうだ。期待通りの答えに僕はおもわず嬉しくなった。高機能自閉症だ。過敏な神経ゆえに、通常の人には感じないモノまで感じ取ってしまう特殊な人だ。彼の作品を見ていると不思議だ。いつしか忘れてしまった自分の内面世界を旅し始める。
 絵画というものは、実は極めて精神的な活動により造られる通信機のようなものであり、それを駆使することで、人々は死の世界と交信していたのではなかろうか?と思う。 本来、人々は、そのような精神文化の中で生きてきたはずだったのだ。四国には、未だ、その世界観が残っている。とても、貴重なことであり、物質文明が蔓延っている現代社会にとっては、極めて重要な文化である。

母の最後の言葉

 個展の最終日の昼前、母のいる病室に入った。母はチューブに包まるように寝ていた。僕の気配を感じたのか、カーテンを開けるようにとの仕草をしたが、カーテンは開いており、部屋は日の光で既に明るかった。母の視力は、もうほとんどなくなっていたのであろう。
 「よしきが来たよ。」という声に反応して、僕の方を見たが、もはや抗癌剤も効かなくなっていた母の顔はミイラのようだった。その母が、小枝のように細くなった手にあらん限りの力を込めて、僕の手をぎゅーっと握りしめ、もう声にもならない小さな声で何かを言った。
「・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・!」
それが、母の最期の言葉となった。

 母が道後の地に嫁いだのは、終戦後の貧困の時代だった。青春時代は戦争真っただ中であったから、自由な恋愛などできるはずもなく、しかも、生家は瀬戸内の海辺の農家で、12人兄弟姉妹の末っ子だったから、女学校を卒業すると有無も言わせず、すぐに見合結婚させられた。結婚後二人は、父方の家のしきたりに基づき、家長となる三男坊から土地を借り受け、農業を始めた。(家長が三男坊だったのには訳がある。長男は戦死し、次男は結婚真近で頭がおかしくなり相続権を失ったのだ。)
 父母は、借り受けた農地の隅に納屋付きの新居を建て、新婚生活を始めた。しかし、幸せな生活もつかの間であった。兄が生れてしばらくして、家長の三男が借金の形に一家の土地を全て失ったのである。父が借り受けていた土地も没収されることとなる。農家が土地を失ったのでは、もはや、一家心中しかない。(実際、小学校しかでていなかった父にできることは、農業しかなかった。)父は苦渋の決断をした。莫大な借金をして土地を買い戻したのだ。それから、母の想像を絶する節約人生が始まった。
 結局、兄はランドセルを背負うことなく小学校を過ごすことになる。家計が幾分裕福になった頃に、やっと僕が生れた。母は女の子が欲しかったようであるが、生れたのは、か弱い男の子であった。(姑となる人も父が幼いときに死んでいたことを考えると、ついに母は、女としての苦労を分ち合える人をひとりも得ることができなかった。)
 僕は、はっきりと憶えている。やっとの思いで建替えた家の、待望の洋風応接間に飾るために、農作業の合間に、突然、人形を造り始めたことを・・・。花作りが何より好きで、玄関をいつも花でいっぱい飾っていたことを・・・。田舎の12兄弟姉妹の末っ子に生まれ、戦争で青春を奪われ、嫁いだ先の農家が芸術で破産したためか、母は華やかな生活をする人々を憎んでいた。「金持ちには成るな!」「芸術家には成るな!」(そんな、家族を裏切るようかのに、僕は芸術に溺れたのだが・・・。)
 病魔が体を蝕むようになってくると、いよいよ母は、近所の新参者どもに悪態を吐くようになった。だが、それは、あきらかに嫉妬である。母が生きてる間に個展を開こう思ったのは、そんな理由がある。僕の絵が新聞に載った時である。病魔で苦しんでいるはずの母が、とても、穏やかな顔で僕を見た。その時、僕はやっと親孝行ができたと感じた。母は、やっと女に戻れたのだと思った。幸せなひと時だった。
 それからである。母が「納屋をアトリエにしたい」という僕の夢を叶えてくれたのだ。しかし、これは親戚一同を敵に回すほどの大決断だ!(あれほど妬んでいた芸術を受け入れ、しかも、次男坊に土地を相続することも許したのだから・・・) 

 母は最期の最後に、決して明かすことも許されなかった自分の夢を僕に託したのだと思う。それが、あの母の最期の言葉には込められていたと、僕は、今でも信じている。 

道後の地にMUTANT現る!

 既に、頭の片隅にあったのかも知れない。文学・宗教の百科事典をぺらぺらとめくっているうちに、「一遍」という、どこかで聞いたことがあるような名が目についた。

 寺も持たず、檀家も持たず、生涯、全国を行脚してまわった僧侶。尊称「捨て聖」。道後の生まれ。

 出家するということは、俗世を捨てることであるのだから、無欲の僧が多いは当然なのであるが、一遍にいたっては、もはや上気を逸している。「信不信をえらばず、浄不浄をきらはず・・・」というのだから、これは、もはや宗教家の枠を超えているのではなかろうか? さらに「捨ててこそ・・・」の思いは「我が屍は野犬に食わせよ」とまで公言するまでにいたったのであるから尋常ではない。

 そして、山頭火の話である。

 一笠一杖一鉢の行乞行脚の旅を始め、自然と一体となり、自己に偽らず、自由に一筋の道を詠い続けた山頭火が終焉の場所として選んだのは、道後からさほど遠くない御幸寺の境内だった。

 これまた、道後である。道後という地には、不思議な魅力がある。世を捨て世界を放浪し続けた人々を、やさしく向い入れてくれる地とでも言おうか・・・ そう、ここには、世界最古の現役銭湯ともいえる古き温泉「道後温泉」もある。

 道後。道の後。・・・あ! 高村光太郎の「道程」を思い出す。

 ぼくの前に道はない。
 ぼくの後の道はできる。

 彼らは、自然の中に分け入り、道を作った人たちだ。そして、古くは、あの遍路道を作った弘法大師もそうだったではないか。彼らこそ、世界で最初の一歩を踏みしめた人なのだ! これは、まさに前衛だ!
そして、今、僕の中では、ジャック・ケロアックの「路上」も浮かんでくる。

 嗚呼!
 道を求めて放浪の旅に出た人たちよ!
 後で、いつでも戻っておいで・・・
 新たな人となって、MUTANTとなって
 世界は一つではない。
 道後の地には Radical Art Center MUTANT があり、
 君たちがやってくるのを待っている。
 そして、MUTANTが人類を救うのだ!

芸術とは妄想である。否、妄想こそが芸術なのだ。

  身体の痛みは神経の痛みとなり、感覚を眠らせる。
  もう、痛くはないぞ!
  やがて、涙も雨となり、汚れた身体を洗ってくれる。
  砂を噛むように生きてきた蝸牛。
  今は、妄想の中にいる。

これは、私の作品『砂場の蝸牛』に添えておいた詩であるが、一人の女性がこれを見ながら涙した。聞くと、かつて彼女は、15年もの間、精神障害者と共に絵を描いていたという。そのときのことを思い出してしまったのだというのだ。しかも、その時、彼女自身も精神を病んでいたと、ぽつりと言った。

私は、『環境と精神の同調』ということをテーマに作品を仕上げている。常に、社会に目をやり、社会に投げかけるように作品を展示している。
何の変哲もないローカル線郊外の駅通路ではほとんど、年金生活の年寄りか小学校前の子連れのお母さんしか来ない。そのような人々にはほとんど無縁の絵なのであるが、彼らから得られる感想は、とてつもなく奥が深い。身内のこと、過去の思い出、将来の夢など、お茶飲み友達のように尽きることなく話しかけられるのである。

「私、この鳥の絵とこの目玉の絵を見ていると、音が聞こえてくるの。そしてずーっと消えないのよ。」と、何度もお目当ての絵を確認しにいらっしゃるおばあさんがいた。
「私、頭がおかしいのかしら?」と言うものだから、「そんなことないですよ。感性がずば抜けてるんですよ。きっと・・・」と、話してあげると、「そうですよね。」と嬉しそうに帰って行かれた。

どうゆうわけか、私の絵は障害を抱えた方によく見ていただく。最初は、そんな絵なのかな〜と思っていた。(実際、自閉症らしき人が何度も見に来ることがよくあった。)
しかし、展示している他の人に聞いてみても、同じように言われるので、捉え方が変わってきた。どうやら、作品の内容に関わらず、障害を抱えた方がよく絵を見に来るようなのだ。絵に癒されたい或いは元気をもらいたいという気持ちが、健常の方よりも強いのではなかろうか? 

現実に満たされない何かを求めて芸術作品を見ているのであれば、芸術とは妄想である。

否、妄想こそが芸術なのかもしれない。
だってそもそも、私たちが見ている絵画とは、ただ単に、紙の上に色のついた絵の具を塗ったものに過ぎないのだ。それを綺麗だ!素晴らしい!と言っているのだから、妄想以外の何ものでも無いではないか。

でも、そんな妄想を楽しむことも・・・ステキだ!

見捨てられざるモノ

 高知の沖の島であった「沖の島アートプロジェクトVel3」の番外編ともいえる『るくる島黄金伝説』だが、これはものの見事に【伝説】という結末を迎えた。そのあまりの結末にショックを受けた私は、おもわず「さっぱり、わからんないよ〜!」なんて言葉を漏らしてしまったわけだが・・・。
 その後、この特別プロジェクトの発生状況や現地状況などもろもろのことを考えていくうちに、いままでのアート史上では、無いがしろにされ続けてきたある重要な部分に気づいたので報告したいと思う。
 それは、いままでグローバル経済に侵食されて続けてきた美術も含めた文化全体の崩壊という現象である。

 我々はTVやインターネットなど大手情報メディアによって情報操作されていることは否定することのできない事実である。そのことを充分承知していても、現状を再度、把握することなどはしない。その地にどんな人が住んでいて、どんな生活を送っていて、幸せかどうか?など・・・そんなことはお構い無しに、自分達の便利で豊かな生活を基準に、いらないおせっかいをする。(あたかも、慈善事業を施したかのように・・・。)しかし、ここで基準を設けてしまったがために、見捨てられてしまったものもいることに気づいていないのである。
 『るくる島黄金伝説』は、こんな限界集落の島にあったとされる黄金伝説の話である。プロジェクトチームは、いまや見捨てられたこの島で消え去ろうしている文化を再生(採掘?)しているわけであるが、このことを地方行政は認めようとしなかったらしい。おそらく、この島を「無人島」にしてしまうほうがお金がかからなくて済むと踏んでいたからであろう?この島には、神社や寺の跡もある。昔は、家族で盆も正月も祝ったことだろう。この島独特の文化もあったかもしれない。しかし今は、これを崩壊されるがままにしてしまおうとしているのが現状だ。
 ここで気にかかるのが、常に新しくて垢抜けている文化を良しとする風潮である。経済のグローバル化が生み出した価値観であり、地方という特色を奪っている。地方のアートプロジェクトが求めているものの大部分もこのような都会文化の模倣であり、その弊害がまさに地方と呼ばれている地方に来ていることを現場は気にするべきである。これは、即ち、日本人としての文化意識の衰退の何ものでもないのだが・・・
 
 だからであろうか?
 この『るくる島黄金伝説』には「簡単には、教えてやらないぞ!」という『伝説的謎!?』が秘められていた。ある意味、経済活動から切り離された純粋な芸術活動である。この尋常ならざる秘密主義的アートパフォーマンスを、私は【見捨てられざるモノ】の最後の抵抗として、心の奥底に留めておきたいと思う。

作品とは芸術の灰である

 数いる芸術家のなかでイブ・クラインほど稀有な芸術家はいない。
 キャンバスに色付けしただけの作品「モノクローム絵画」でデビューしてからというもの、火と水だけで描いた作品。裸婦で描いた作品。風で描いた作品。どれ一つとして自身で描くということはしなかった。表現するというより、その時の現象を刻印するかのような作品。極めつけは、「イブ・クライン空を飛ぶ」という新聞記事の発行。そこには、実際に窓から飛び立つイブ・クライン本人が写っている。これはトリックでも何でもない。本当に彼は空を飛んだのだ。ただ、一瞬だったが・・・。そして、この一瞬を達成するために彼は日本までやってきて受身を習得していた。
 そう、彼にとっては、この【一瞬】こそが芸術なのであって、その結果としての【作品】は、芸術という炎で焼き尽くされた後に残った灰でしかないという。だからだろうか、作品には何の価値もないとでも言いたげに全て非売品だ。
 彼は、芸術家だが、そのような芸術観を持っていたために、芸術で稼ぐということはしなかった。柔道というものを生業として芸術活動を維持していただけなのである。彼は芸術で食っていたのではなく、芸術をするために食っていただけだったのかもしれない。

 社会彫刻家 ヨゼフ・ボイス、梱包美術家 クリスト なども、芸術で儲けようという気はなかった。しかし、他に副業をもっていたわけではなく。あくまでも芸術家で有り続けた。
 それは、生活費も含めた資金の調達から芸術活動は始まっており、そのためのプレゼンテーション作品も用意している。アート・プロジェクトを組織して、スタッフも募集する。そのように社会そのものを巻き込み、環境そのものを変革するが、展示後の作品はちゃんと再利用できるように廃棄されるという。

 NEOGEOのアーティストにいたっては、芸術活動は経済活動から切り離された純粋な想像活動であるとされる。作家の手から離れてしまった【作品】は、もはや【商品】であって【芸術】ではないのである。このような姿勢は、明かにイブ・クラインの芸術観と一致する。

 さて、いずれにしても現代美術家という者は、あくまでも現代を作品化する者であるわけだから、「以前制作した自分の作品がいくらの価値があるか?」というようなことは、もはや重要ではないと思われるのだが、いかがだろうか?

金なんぞ要らぬ!

僕が、最近、聞いて気になっている話は、竹中平蔵氏の格差社会に対する提言だ。
竹中氏はこう言った。
① 格差社会は無くならないし、これからも、ますます出てくる。
② 格差を無くすには、みんな平等に貧乏になるか、豊かになった人に頑張ってもらうかしかない。
③ その選択は、当然、後者でしょう。
僕は、この理屈は『豊かになった側からの貧乏な人々に対する考え方』だと思う。
どうも、釈然としない、不愉快さを感じる。
格差社会が生まれてくる元凶、その本質を、いわゆる勝者の慈善行為で隠そうとする感がある。
気持悪い・・・!
社会に適応できるか?できないか?という理由だけで、その人の人生を決定している社会。
それは、もう、社会が人間を選択しているのであり、その社会そのものが悪なのである!
そう考えたときに、この社会を形成している富裕族に注目して、ことを頼もうとするのは愚策である。

以上は、2008/7/12(土)に、私が記したブログ記事『格差は社会悪の産物』だ。ここでは【格差問題の解決を富裕層に頼むは愚策】と書いていたが、実は『格差は富裕資本家が仕組んだ経済政策だった!』というとんでもない事実が浮上してきている。(詳しくはナオミ・クライン著『ショック・ドクトリン』を参照)そうすると、なるほど、竹中平蔵氏のこの発言の意図するところが、よーく見えてくるわけだ。

世の中が不景気だからと言って、金持ちに儲けさせようとしても、俺たちゃ騙されないぞ!
できるだけ質素な生活をして、あんたらの作るものなんぞ、買ってやるものか!
金なんぞ要らぬ!
生活に必要なものは、みんなで作って物々交換すりゃ〜いいんだ!
世のクリエーター達よ!結束せよ!
みんなで、平成ビートニクになろうーぜ!