作品とは芸術の灰である

 数いる芸術家のなかでイブ・クラインほど稀有な芸術家はいない。
 キャンバスに色付けしただけの作品「モノクローム絵画」でデビューしてからというもの、火と水だけで描いた作品。裸婦で描いた作品。風で描いた作品。どれ一つとして自身で描くということはしなかった。表現するというより、その時の現象を刻印するかのような作品。極めつけは、「イブ・クライン空を飛ぶ」という新聞記事の発行。そこには、実際に窓から飛び立つイブ・クライン本人が写っている。これはトリックでも何でもない。本当に彼は空を飛んだのだ。ただ、一瞬だったが・・・。そして、この一瞬を達成するために彼は日本までやってきて受身を習得していた。
 そう、彼にとっては、この【一瞬】こそが芸術なのであって、その結果としての【作品】は、芸術という炎で焼き尽くされた後に残った灰でしかないという。だからだろうか、作品には何の価値もないとでも言いたげに全て非売品だ。
 彼は、芸術家だが、そのような芸術観を持っていたために、芸術で稼ぐということはしなかった。柔道というものを生業として芸術活動を維持していただけなのである。彼は芸術で食っていたのではなく、芸術をするために食っていただけだったのかもしれない。

 社会彫刻家 ヨゼフ・ボイス、梱包美術家 クリスト なども、芸術で儲けようという気はなかった。しかし、他に副業をもっていたわけではなく。あくまでも芸術家で有り続けた。
 それは、生活費も含めた資金の調達から芸術活動は始まっており、そのためのプレゼンテーション作品も用意している。アート・プロジェクトを組織して、スタッフも募集する。そのように社会そのものを巻き込み、環境そのものを変革するが、展示後の作品はちゃんと再利用できるように廃棄されるという。

 NEOGEOのアーティストにいたっては、芸術活動は経済活動から切り離された純粋な想像活動であるとされる。作家の手から離れてしまった【作品】は、もはや【商品】であって【芸術】ではないのである。このような姿勢は、明かにイブ・クラインの芸術観と一致する。

 さて、いずれにしても現代美術家という者は、あくまでも現代を作品化する者であるわけだから、「以前制作した自分の作品がいくらの価値があるか?」というようなことは、もはや重要ではないと思われるのだが、いかがだろうか?