シュミラークル世界こそが現実

 ゲームは瞬く間に発展した。そして、気がついてみれば、私は、いつの間にかゲーム世界に溺れていた。寝ても覚めても、ゲームのことが頭から離れない。日々の生活の中でも、ゲームネタを探しているからだ。
 そしてある日、気がついてみると、私は病院のベットで寝ていた。頭が割れるように痛い。どうやら、ホームに転落して、頭を強く打ったようだが、記憶はない。記憶がないだけではなかった。物の名前が出てこない。行動性言語障害という障害らしい。あれだけ、一生懸命、頭に詰め込んできたものが一瞬のうちに消えてしまったことで、私の価値観は一変した。

 知を疑え!

 それから、私は奇妙なことを考えるようになった。「そもそも、どうして僕は『泉よしき』なんだ? 誰かが僕を、たまたまそう呼んだだけじゃないか。本当の僕は誰なんだ?」「天皇陛下は亡くなったって言ってるけど、死んだところを見た人はほとんどいないじゃないか? 死んだことにしているだけかもしれないぞ。」「そもそも、このお金だって、その価値はコンピューターが勝手に決めてるだけじゃないの?」世の中のあらゆることが信じられなくなっていた。そして、そんなことを考え出す自分もわからなくなってきたのである。「そもそも、僕は生きてるの?」「世界はあるの?」
 後から知ったことであるが、そもそも脳で生きている人間は、現実世界を客観的に観察してシュミレートすることができる。その能力があまりに特化してしまったために、現在の人間にとっては、シュミラークル世界こそが現実になってしまったのだそうだ。このことは、見方を変えれば、こういうことになる。

 世界は、変えようと思えば、誰でも変えられる。

なぜならば、世界は自分の頭の中にあるからである。

ネオジオ(NEOGEO)はそんな世界観から生まれてきた全く新しいアートだった。